5月13日、大嘗祭に向けた「斎田点定の儀」。
前例では、平成2年2月8日に宮中三殿の神殿前庭に「斎舎(さいしゃ)」を設け、
卜者(うらないじゃ)役・灼手(やきて)役・合図(あいず)役の3人の掌典
(しょうてん)がその斎舎に入り、幔(とばり)を垂れて
「亀卜(きぼく)のことが古例により」行われた(鎌田純一氏『平成大礼要話』)。
その中身は?江戸時代の実例は『鈴鹿家(すずかけ)文書(もんじょ)』によって、
やや詳しく知る事が出来る。比較的近い昭和の大嘗祭については、
実際に祭祀に奉仕された川出清彦氏の興味深い証言がある。「陛下(昭和天皇)の御手もとには、まず、その候補地として悠紀地方にて三県、
主基地方三県が進められる。そうすると陛下は、その内の二県に御加点(御爪〔おつめ〕
の印〔しるし〕)される。
この御加点二県の名を密封した封書を卜串(うらないぐし)という。
この卜串が卜者に渡される…そして亀卜を行なった上、卜合、卜不合は
卜串の包みの表面に書して…(天皇の)御手元に返上する。
ゆえに卜者はその内容、つまりどの県が卜合であったか否かは、
全然わからないのである。
したがって、これは卜者の決定ではない。
その決定は神と陛下、否(いな)、陛下の御決定に神も加わらせ給(たま)
うと見るべきものであろう」(『祭祀概説』)と。直接、亀卜に携わる卜者には結果が分からない―というのは面白い。
ちなみに、昭和の大嘗祭では悠紀(ゆき)の地方が滋賀県、主基(すき)
の地方は福岡県という結果だった。
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